心の限界が、身体症状として現れてしまったという事は、
自分の意志でコントロールなど出来ません。
まずは「普通に学校に行く事を諦める勇気を持つ」事が大事です。
それが出来た後で大事な事は自分の居場所を作る事。
教室に行けなくても私は学校に三年間通いました。
不登校なのに最後の一年は皆勤賞でした。
家で自習するという手もありましたが、義務教育だからこそ学べるものがあると思っていました。
それに学校自体は好きでしたから、行く意味は必ずあると思い、騒がしくない時間帯にゆっくり登下校するのが日課になりました。
今日は私が卒業までの三年間、学校に行く事によって何を学んだかをご紹介。
結論的には、ボーっとするだけでもいいので行けるのなら行っておいた方が良いです。
15歳までに学ぶものは大人になって活きてきます。
病院巡り~小児科~
まぁとりあえず「何故学校に行けないのか?」を証明しなければ学校側からの電話がしつこい。
多分そういうシステムなんだろう。学校側も面倒くさかったと思います。
毎回、母に迷惑をかける訳にもいかず、更には自分に何が起こっているのか確信したく、病院へ行く事にしました。
病院から「診断書」を貰えれば、自由登校が認められます。
最初に行ったのは、小児科。
器質的疾患はないのかを検査しました。
問題無はありませんでした。医学結果的には健康という事です。
何だか複雑な気分でした。
薬を飲めば治るとか、食生活を改善すれば治るとか、その方がまだ教室に行ける可能性が残されているから。
簡単に治るものでは無い。一生自分と戦い続ける病気なんだと理解しました。
私のかかりつけ医だった当時の先生は、とにかく
”精神系の病気は根性で治せ”と言った古い考えの方でした。
もしくは、”頑張ればまだ間に合う”と言う意味なのかもしれませんが、「問題ないわ~」程度の診断で私へのあたりが強くなった気がしました。
心療、神経系の専門医でなければ だいたいは結構な冷遇を受けるかもしれません。
(当時と違って、今は起立性調節障害(略:OD)が周知されていると私は感じますが)
とは言っても学校に行きたくても行けないのは事実なので、とにかくどうにかしてほしかった。
何より精神科系の病院に行くのには若干抵抗がありました。
病院に通い続けても”何の意味もない生理食塩液の点滴”を打たれるだけで、症状は改善されるはずも無く先生も私も困り果てていました。
今思えばしぶしぶ診断書を書いて下さったのだと思います。
そこで初めて
「起立性調節障害、低血圧症」
であることが判明しました。
ここまで結構長い時間がかかりましたね~。
「診断書を貰ってきて」と学校側から催促されるし、家族には迷惑かけっぱなしだし、毎日未知の症状で体はくたくただしで
病名が分かっても”診断名がついて良かった~”とむしろ安堵しました。
私はインターネットは怖い所と捉えている節があり、信用してなかったですから(それは今も)、この時病気について調べはしませんでした。
とりあえず今が大切で、ゆっくり自分のペースで学べる所があれば、学校に行けるのかな?と思いながら
何となくこの診断書をコピーしておきました。
この行為、今後 精神科、心療科、神経科とかかる時にとても重要な証明となるので、新しく受診する病院の為に毎回コピーしておいた方がよいです。
学校へ渡したら戻って来ないので。
私は診断書を出す事によって教室には行かなくてもいいよとの学校側の判断が出ました。
診断書が無かったら、おそらく保健室に通わなければ行けなかったでしょうね。
保健室は苦手でした。
サボりに来ている子もいて、何だか騒がしい。ストレス発散に来ている人が大半でした。
「先生~次の授業めんどい~」なんて言っている人と一緒にしてほしくなかった。
先生が優しすぎてしつこいくらい悩みを聞いてくるのも苦手でした。
最初に行ったときに眠くもないのに寝かされ、「先生の質問に絵を書いて答えてみて~」とお絵かきセットを渡された時
”バカにしてるのか?”
と思いました。
心理テストで遊んでいる暇が惜しかった。
今なら
「先生不振からくるPTSDのようなもので、教室に入り授業が始めるとパニック発作が出る」
と説明できますが、言えた所で教室には入れない。
長期に及んで教室で授業を受けれない場合、「特別教室」なるものがわが校にはあったので、私は三年間そこで過ごす事になります。
医師のデリカシーの無さで病院を変える
特別教室に行きつつ、病院には継続的に通っていました。
診断書も書いて下さり、小さい頃から風邪にかかっては毎度お世話になっていた先生。
その腕の良さから信用していました。
ある日、診療が終わり 待合室で待っててくれた母の元に戻って座った時、そこにいらしいた患者さん全員が
”私と母”
を見たのが分かりました。
母に尋ねると、私が点滴中に母の元へ先生が来て
「あなたの子供はどこも悪くない」
と伝えられたそうです。
失望しました。
そのデリカシーの無さに。
お医者様が待合室に出てくるという事は、必然的に注目の的になります。
どのような音量でどのような言葉の強さで言ったかは推測でしかありませんが、
”子供を過剰に甘やかしている母親”
と思われた可能性が高い事は、雰囲気で分かりました。
”母を恥ずかしめてしまった”
申し訳なさと医師への信頼が一瞬で崩れた瞬間でした。
次の日から二度とこの病院には行きませんでした。
先生が心配してくださって異例な事に自宅に電話が来ましたが、当時の私の心境としては感情を逆撫でする行為でした。
同時に、本当に心配で母に歩み寄って下さった・・・とも思いましたが・・・
どうしても許せなかったです。
ただ長年お世話になった事は今でも感謝しています。
病院巡り~精神科~
私の家族は有り難い事に、精神病に理解を示してくれる人達でした。
この時点でだいぶ恵まれていました。
今でも支えて頂き、つくづく運が良く幸せ者だと思います。
そんな両親から「有名な大学病院の精神科があるらしい」と告げられ、調べてくれたようなので行ってみようと決意。
内科で異常がないのなら、心療系の病院に行くしかない。「精神科」という響きにドキドキしながら・・・。
行ってみるとまず渡されたのがアンケート用紙みたいなもの。
今の気持ちに近いものに〇をする・・みたいなものだったと思います。
精神を病んでいるのかの簡単な質問に答えているうちに
ん?これ・・・私悩んでなくないか?
と自分でも疑問に思うアンケート結果に。
精神科は主たる症状が心にある場合に最適な場所です。
どうやら当時の私は該当しなかったようです。
精神科精神科、神経科、精神神経科、心療内科、神経内科の違いは?
出典元:厚生労働省「みんなのメンタルヘルス総合サイト」より引用
まだこの頃は、精神科以外に専門科があるとは知らなかったので
「うつ病じゃないですよ~」の判断。
まぁそれには納得でした。
・やる気はあるのに体が動いてくれないから学校に行けない。
・教室に入ると頭が真っ白になる。←(これに関してはパニック障害だった可能性有?)
私の場合は上記の二つが悩みでしたから。
何か調べてたら「ホルモンバランスが崩れてるせいじゃないか?」という事になり、ホルモン調節の薬が処方された。
薬の副作用の危険性
原因不明の病気に対しての初めて有効かもしれない薬を処方され、嬉しくて何の疑いもなくしばらく飲み続けました。
ある日の夜、何か寝苦しいなぁ~と思い起きて見るとビックリ。
パジャマが冷たい?
なんと母乳がでていました。
そういえば最近胸が張ってたなぁとは思っていましたが、ストレッチマークが出来るほどとは気づきませんでした。
ご丁寧にお尻にも。あの赤紫っぽい線ですね。
この線、一度できると完全に消す事はできません。
今は白っぽくなって至近距離で見たら分かる程度ですが。
この副作用で両親が激怒。
と同時に”安易に精神科に連れて行った事を後悔している”と、母と父が夜中話し合っているのを偶然盗み聞ぎしたことがあります。
そんなことない!!
私は知ってる。
うつ病を治す為の本を、私に見つからないように隠し持っていたこと。
その時、心臓を鷲掴みされたような罪悪感と感謝で涙がでそうになりました。
どんな病気であろうと”薬には副作用がある”と、慎重に考えなかった自らの責任です。
”もしかしたら治るかも”と、挑戦したいと思った気持ちと
副作用に気づかないほど自分の体に鈍感だった私の責任です。
とりあえず両親が医師不振に陥り、私もちょっぴりショックを受けたのは確かなので、これを機にしばらく病院とは無縁の生活を送る事になります。
あれから何年もたち、現在の主治医に聞くと「中学1年という思春期真っ只中で、ホルモンバランスが崩れるのは当たり前。そこにホルモン調節の薬など危険すぎる」との事。
皆さんも気をつけて下さいね。
ただ、精神病、神経病という原因不明で根本的治療の見つかっていないものを究明して、患者さんの為に必死で働いてるお医者様には感謝しています。
特別教室という自分の居場所
当たり前に決められた時間に登校し、集団生活を忙しく生きていたのが一転して自由に考えられる時間ができました。
生活が180度変わり、何もしない事で過去を振り返り、どうして今此処にいるのかをゆっくり思い返す時間ができました。
完全ではないにしろ、記憶が徐々に戻ってき始め、少し肩に力を入れすぎて生活していたのかな?なんて思えるほどになりました。
それだけ日々忙しく頭をフル回転して”心と体を酷使しすぎたんだな”と思い、一旦学校ですべき事を止めてただ学校に登校する事だけを目標にしてみました。
な~んにもしない。
私が過ごした特別教室という所は、学校内の一番端っこにあり そこには何かしらの理由で教室には入れない子達が、
「今日は行ける!」
と思った時に登校できる場所でした。いわゆる自由に登下校できる所です。
学年は関係ないので、先輩たちと一緒に過ごします。勉強したり 卓球したり お話したりと基本的に”遊びに来ている訳じゃない”という一線を越えなければ、過ごし方は本人に任せるといった方針の場所でした。
今日の予定を敢えて決めない事によりストレスをこれ以上溜めないようになっていきました。
皆が授業中に図書館に行ったり、学校中をお散歩して景色を眺めたり、自習を自分のペースでしたりと、時間の流れがゆっくりと流れる日々にとても癒されました。
運動の一環としてやっていた卓球はハマり過ぎて顧問の先生に「是非卓球部へ!」と誘って頂けたほどでした。(笑)
詳しいルールは知らないですが、とりあえず相手のコートに返ればいいというルールでよければ未だに無敗。
挑戦者求む。(笑)
そんな適度な運動と居心地の良い学習スタイルのおかげで、ストレスが軽減されたのか
中学1年生編で書いたODの精神症状、身体症状は落ち着いてきました。
特に失神、立ちくらみはいつの間にか完全になくなって嬉しかったです。
身体のダルさとその他の症状で長時間登校し続ける事は不可能でしたが、精神症状がほぼ無くなったのが大きかった。
やっぱり積もり過ぎたストレスと相性の悪い担任の先生が原因だったのか?
私には小学校(特に高学年になってから)の出来事の衝撃が大きく、体が休憩を求めていたようです。
特別教室には信頼できる先生がおり、三年間色々お話を聞きました。
先生としての立場からの気持ちと個人的な意見。というか愚痴(笑)
高校での生徒達の様子。
教育制度が現代にあっていない子も沢山いるという事。
様々な方から聞いてとても大切な事を教えて頂きました。
それは、義務教育が終われば驚くほど自由になるということ。
干渉が無くなり一人で生きて行く事の難しさを知る人が多い。
悪く言えば相手にされなくなる。
今だけなのだ。話しかけてくれる人、大人が気にかけてくれるという事は。
大概の人は耐えられなくなって孤立する人も出てくるんだろうなと思いました。
”怒られる事で心を保てている人も居るんだろうな”と考えれるようになったのは
私にはとても貴重な経験でした。
少し、教師に対して寛容になった瞬間でした。
三年間、家で自習してるよりもとても大事な事です。
色んな出会いが私を成長させてくれたように思います。
沢山の人からマンツーマンで話を聞ける事も15歳までの特権なのかもしれません。
校舎からから見る景色も・・・。
学校に行って過ごす事の方がよっぽど病気を緩和するのに近道だったりしますよ😌
不安からくる努力~そろばん~
中学三年生になる頃、流石に将来の不安というものが自然と出てき始めました。
”自分のなりたい職業って何だろ?”
”そもそも働けるのか?”
身体症状が完全になくなった訳では無い。
どういう訳か未だに教室に入れないでいた。
(色々な意見を頂いて、頭では自分の信じた道を行けばいいのだと分かっていても 体が拒否反応を起こしていました。)
その為、未来へのビジョンが明確に浮かべる事が出来ませんでした。
将来の仕事にするつもりはありませんでしたが、
資格は将来、身体が元気になった時に役立つかも?と思い、小学生の頃からなんとなく続けていたそろばんに力を入れ始めました。
努力してないと不安だったんだと思います。
”自分の限界に挑戦”と目標づけて、生きる糧としました。
記憶力は低下していましたが、まだこの頃はギリギリ大丈夫だったのと、私のそろばんの弾き方は特殊で殆ど頭で計算しないで解くスタイルだったので、そこまで頭をフル回転と言うほどでも無かったのかもしれません。
この数字がきたらこう弾くみたいな、計算では無く法則で覚えていたんでしょうね。
日常では全く役にたたない(笑)
でもまぁ最終成績は
「全国珠算学校連盟 参段」
中学三年まで頑張った証として今でも誇れる証明です。
今は知的活動すると、疲れて日常に支障が出るほど身体症状が酷いので輪をかけて何の役にも立っていませんが
自分に自信を持てる、良き思い出です。
私を支えたのは友達との絆
特別教室に居る時も、小学校からの友達や中学で出会った友達が
昼休みを利用して会いに来てくれていました。
これが非常に励みになりました。
もつべきは善き友人です。
困難を一緒に乗り越えた小学校時代からの親友達
私の小学校は、卒業したら中学は皆バラバラになります。
特に私の行く中学には学年全体でも10人程度。
ただ、その中に今でも親友の友達が二人いました。
本当に私はつくづく幸運です。
特別教室に通いだしても私に会いに来てくれてました。
主にグチを言いにですけど(笑)
それでも嬉しかった。
親友Mちゃん
一人は学年で一番身長の低い小さな女の子。
泣き虫で真面目すぎて自分を追い込みすぎる優しい人。
一緒に下校しては私が慰めるといった場面がもう小学校から続いていた。
今では頼りになる3児のママ。
女子の中で一番身長が高かったこの頃の私とは、今は正反対。
今ではMちゃんから教わる事の方が多い。
置いて行かれたような寂しさより、嬉しさが勝るのは
弱音を吐こうが 豪快に泣こうが 努力し続けて来た事を知っているから。
「ママは頑張り屋さんなんだよ。」
子供と遊ばせてもらう時に私が伝えている言葉。
この瞬間がたまらなく幸せです。
親友Hちゃん
もう一人は意志がグラつくことがない、いつも一歩先を歩む女の子。
それ故に一匹狼になりがちだが、どんな逆境も跳ね返してきた人。
唯一この人にだけは深い相談ができる。
その裏で、複雑な家庭環境の中を泣きながら耐えていた事をつい先日知った。
ママになったお祝いに行ったとき、小学校からの思い出話になり、あの時(小5)の先生のような母親にはなりたくないと
初めて泣く姿を見た。
私より壮絶な体験をしながらあの忙しい学校生活を送り、誰にもグチをもらさなかったあなたを、本当に誇りに思う。
病気に負けてる場合じゃないなと思い知らしてくれる。
子供が言葉を理解できるようになったら何て言おうか?
感謝と尊敬が凄すぎて言葉にどう表せばいいか分からない。
「私もママが大好きだよ。」
で伝わるかな?
伝わるといいな。
無邪気な男の子
体調が悪くて「大丈夫?」と心配されるのが申し訳ないのと、「どうしたの?」に説明するのが難しい為
基本的には下校時間をちょっとずらして早めに帰っていました。
教室から合唱する声が聞こえてきたら一番良いタイミング。
一人早めに敷地内を歩いている私に
「いーぬ。さん!」
と呼び止められる。
振り返っても誰もいない。
キョロキョロしてると
「上!上!」
見上げると、気怠そうに窓から手を出している男の子。
中1の時に少し話した事があるクラスメイトと、その友達らしき人が数名。
特に私に用事がある訳じゃないのは瞬時にわかった。
”名前を覚えててくれてありがとう”という意味と
”お先に帰るね”という意味を込めて
「バイバイ」
と手を振った。
全員にっこり笑って手を振り返してくれたのがとても嬉しかった。
この頃の男の子はいい感じに力が抜けていて気さくです。
なんてよく手を振ってもらえました。
優しい人に囲まれて、支えられているのに
結果を出せないのが悔しかったです。
神経、精神系の病気とは本当に憎いやつです。
全くもって会いたくなかった人との再会
小学三年生の時の元担任の先生が、私の中学に移動している事は知っていました。
あの「陸上の日」のもう一人のS先生(小3の担任)でしたから。
「詳しくはコチラ」↓
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パニック症状はストレスの積み重なりでなる~小学5年生編~後期
前期からの続きになります。 前回の記事を見て頂いて、「そんなに酷い先生なら親に言い、PTAなりに動いてもらえばいいのではないか?」と思った方もいらっしゃるでしょうが、 この先生の上手い所は”もっともら ...
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あの一件以来、この先生も私の中では
”尊敬できない大人”
に認定していたので、全く会いたくなかったのですが
運命とは不思議なもので
3回ほど廊下ですれ違う事になります。
少し嬉しかった1回目
登校も時間をずらしていたので、シーンとする廊下を歩く私を見て不思議に思ったのだろう。
4,5年ぶりの再会だったと思います。
先生は私を覚えてて下さいました。
一回目の会話はこんな感じだったと思います。
先生も移動中で、立ち話ができるほど時間は無さそうだったのでそれ以上は話しませんでした。
相変わらず冷たい雰囲気を纏っている人でしたが、
覚えてて下さった事は単純に嬉しかった。
確信した2回目
2回目にばったりあった時も、一回目と同じ状況でした。
しかし、交わした言葉で過去のトラウマを思い出した。
”あの子はああいう子だから”
あの時、S先生(小5の担任)から聞かされた言葉。
直接聞いた訳では無かった為、
”S先生が勝手に言葉を置き換えただけかもしれない”
と、どこかで思っていた。
でもこの言葉を聞いた時の空気、声のトーン、目線を見て確信。
”先生、本当は頑張ってるなんて思ってない”ってバレてますよ。
教師とは思えないS先生に、目の前のS先生。
このダブルS先生は 私を大人不振にする強敵でした。
とりあえずこの時は、愛想笑いをして足早にその場を離れました。
決断の3回目は私の人生の教訓になった
最後は中学3年生の頃。
卒業を視野に入れて行動していました。
私は”高校に行けないだろうな”と薄々感じ始めていた。
だとしたら私にとってこの三年間は何を意味していたのか考えてみた。
印象に残っているのは私にわざわざ会いに来てくれた人たち。
メモ
・一年生の時の担任の先生は、私が進級しても心配で会いに来て下さった。
・歴史専門の教師でありながら卓球部の顧問の先生は、悩んでる事はないかいつも気にかけて下さった。
・英語の先生は度々現れては、悪知恵を教えて下さり大いに笑わせて頂いた。
・忙しいはずの友達は、手紙を使って私と対話し続けてくれた。会いにも来てくれた。
本当に思ってくれている人たちは、必ず何かしらの行動を起こしてくれた。
私が大切にするべき人生の生き方が分かった瞬間でした。
3度目、また廊下ですれ違ったS先生。
私が特別教室に居る事を知りながら、一度も来てはくださらなかった。
私は”おはようございます”と挨拶はしたものの、歩みを止めなかった。
何か私と会話したそうな雰囲気を感じたが、そのまま先生を振り返る事なく、真っすぐ歩き続けた。
私の価値観とは”大事なもの(人)には行動にでるもの。出すもの”
これは私の生きて行く為の信条です。何をするにもこれが判断基準になります。
私が中学三年間で得た物は、とてつもなく大きかった。
まとめ
自分に合わない境遇だからこそ、大切なものが見つかりました。
小学校、中学校と、9年間、
「逃げれない義務教育の中で、どう過ごし どう対処し
自分が信念として持ち続けるべきものは何なのか」
それを学ぶ為の”学校”でした。
嫌な状況から目をそらさずに立ち向かえた意味を知りました。
もし逃げたいのなら、大人になってからでいい。
人生のたった9年間を我慢すればその先は自分次第。
自由です。逃げ放題なのだ。
その代わり逃げてばかりだと孤独になります。
義務教育って結構奥が深いなぁと最近思います。
私の年は同級生に恵まれる代わりに先生に恵まれなかった。(個人的に)
まるで横暴な上司にどう立ち向かうのか?を9年間考え続け、既に社会経験をしているかのようでした。
敢えて先生が”悪役”になってくれていると全く思わなかったので、自分を成長させる事ができたのだと思います。
得体の知れない病気になっても、頑張って良かった。
生きる為の目標を見つける事ができました。
私がめげないで強く生きれるのは、大切な人達がいるからです。
この志は私が人生を終える時まで折れることはありません。
だから今の状況、環境に屈する事がないのです。
9年間の間に、出来るだけ心の支えを探してください。
学校とは、そういう所なのですから。
いーぬ。の回想
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